青羽くん(小説家) 前編

青羽くん(小説家) 前編

(2022年10月の寄稿文です。)

僕はこの春、京都の大学院に入った。とはいえ農学を専攻しているわけでもなく、無の会に初めて来たのは5月の田植えシーズンの1週間。

2021年の冬に京都でたまたま無の会の宇野さんに出会い、そこで「じゃあ田植えの時期に手伝いに来なよ」と言われたのをぼんやりと覚え続けていたからだ。こういう誘いに図々しくもちゃんと乗っかるのが僕のポリシーだ。

せっかくなら植えた稲を収穫したいし、美味しいご飯も食べたい。そう思って、また無の会でお世話になることとなった。

無の会が位置する会津美里町は黄金に輝いていた。田一面に稲が実る豊饒の秋。ただ後に知ったことだが、今年は9月の台風によって多くの稲が倒れてしまい、昨年のような豊作とはいかないらしい。僕が無の会で体感することになる農業と自然のシビアな関係は、この眩しい光景からもうかがい知れることだった。

「今年の夏は気温がよく上がり、まあ台風が数個は来るだろう。そう考えて稲を植えていた」軽トラを運転しながら僕に語ったのは無の会の岡本さんだった。「収穫直前に(台風が)来るのはちょっと困ったけどね」と付け加えて。

無の会の田も稲が風により傾いていたが、完全に倒れているものは少なかった。予想が当たったのか、有機栽培の稲が強かったのか。要因は色々あるだろうが、無の会の農作物は田でも畑でも生き生きとしているのが分かった。

無の会の人たちは「どうすればいいものを作れるか」と本当に色んなことを考えていた。

「稲が倒れないように植える間隔を広めにした」

「肥料のやりすぎでC/N比(土中の炭素と窒素のバランス)が崩れてたかもしれない」

「気温が低かったから白菜の発芽が遅れているかも」

上手くいくものもあればいかないものもある。それでもとにかく、起こったことの原因を考え、今後起きることを予想している。それは、自然に相対して農作物を作る中で当たり前に生じてくる態度に思えた。

でも、自然の中でものを作るために何かを考えるというのはきわめて難しいことだ。あまりにも変数が多すぎる。土の中はどうなっているか、気温がどう動いているか、そもそも影響を与える要素は何か。すべてが正確に追えるわけもない。自然は容赦ない複雑さを持って人間に立ちはだかる。

の複雑さに立ち向かうため、人間には感覚が、ひいては直観があるのだと僕はかねてから思っている。人の感覚は、自然や農作物のことを何よりもリアルに伝えてくれる。

「植物がどこか艶っぽく輝いている」

「土が暖かくとろっとしている」

感覚や直観は人間が持つ何より優れた能力に違いない。自然が持つ限りの無い条件・要素を、この体は自分でも気付かないうちに上手く処理して、感覚という形で教えてくれる。

そんな感覚の話で印象的だったことが一つある。滞在中の食卓に『やますけ農園』という会津の養鶏場で作られた卵がのぼったときのことだ。

この農園はニワトリのストレスをなるべく減らそうとしていて、生産量は少ないが非常に美味しい卵を作っている。実際、しっかりとした卵の風味があって美味しかった。ただ、具体的にどの味覚が強くて美味しいのかと言われるとよく分からない。うーん、と唸っているとき、この卵を貰ってきた宇野さんが言った。

「味じゃないんだよ。生命力が強いものが美味いんだ。」

僕はそのとき正直言えば「なんて乱暴な」と思っていた。「ざっくりした理解だなあ」と呆気にとられたし、「それでいいのか?」と内心でツッコミを入れていた。でもその言葉は、無の会での日々を重ねるごとに、自分の深いところにストンと落ちていった。

新鮮なものは美味いし、旬なものも美味い。美味いという感覚は何より雄弁だ。それはその食を作る様々なものが強靭であり、調和しているという証拠になる。僕は味覚の分解をやめて、漠然と感じた美味しさを「生命力」や「豊かさ」という感覚に結びつけるようにした。すると、食事がどんどん楽しくなったのだ。

考えることは分解していくこと。対象を知ろうとしてバラバラにしていく。還元主義とか合理性とかそういう言葉が先行して、破片は散らばって、僕から離れていく。客観的によく分かるようになる一方で、僕が確かに捉えていた「豊かさ」は霧消していくことに、ふと気付いた。

頭で考えるだけなら対象は自分とどれだけ距離があってもいい。遠い戦争のことも、広大な地球のことも、何かの体制への主義主張も。どんなことだって考えられる。でも、感じることは?

……感じるためにはこの体が対象に触れていなければいけない。物理的に、心理的に、色々な触れ方があるとは思うが、とにかくその先にこの体を伸ばす。その対象に触れて、自らを同調させるようにじっと目を瞑る。自分のチャンネルをその対象だけに向けて、安易な言葉や迂闊な要約を避けて、ただ触れた先にあるものを知ろうとする。

そういう丁寧な理解を僕は怠ってきたのかもしれない。近しいもの、真に感じて考えられるものを長らく見逃してきたのだろうか。感じることは容易じゃない。感覚まで使ってものを正しく考えることは、ずっと身近で、ずっと深い。僕らが正しく考えたうえで言及できるものの範囲は案外狭いけど、その分、いつまでも湧き出る地下水のように深淵で力強い。

考えることと、感じること。このふたつが僕の中で強く接近し、融合していく様を見たような気がした。

(後半へつづく)

青羽悠
小説家。京都大学大学院所属。著書に『星に願いを、そして手を。』(集英社)、『凪に溺れる』(PHP研究所)、『青く滲んだ月の行方』(講談社)など。

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