
【児島先生の一番弟子】by おかちゃん
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僕が無の会に来てから11年が経ち、岡ちゃんは児島先生のそばで最も長く最初に来た若者と呼ばれているが、実のところ研修生としては僕は2番目であり、西本さんという僕より3年前から無の会に飛び込み、僕が来てから3ヶ月間だけ重なった先輩がいた。彼はギラン・バレー症候群という難病に悩まされ、群発性頭痛という症状が起こるたびに自分で腕に痛み止めの注射を打ち続ける人だった。
僕は花粉症さえなければ至って健康体であったが病気治しをきっかけにした農業を、共に歩めていけることに大きな期待と希望があった。しかし当時の児島先生の指導は「やれ」と「バカ」しか伝わらなく、燃やせる廃棄物処理に苦戦していたときは、燃料を上からぶっかければいいんだと先生に言われ、その通りにやれば炎の勢いで前髪が燃えてしまったという。無の会で働く人への労災保険は僕が来た後に加入し始めたのだが当時大学生だった僕は1人前になってからの待遇でいいのではと思う世間知らずさ。今思うとこのような職場では1人前になられるどころか誰も研修したいとも思えない農園だったと感じる。
西本さんはなぜ当時の無の会に3年間居続けてきたのだろう?西本さんから聞いた忘れられない言葉に、「僕はどんなブラックでも、居ても無駄だと確信した仕事でも3年間はやり続ける。」と話してくれた。西本さんは無の会を辞めたいと思いながらも則子さんの人柄の素晴らしさに支えられ、無の会や先生のために働くのではなく則子さんの生きがいに貢献できるところから、則子さんが支える先生の素晴らしさを則子さんを通じて3年あれば理解できるのではないか?児島先生は彼を戦力にならないと思いながらも群発性頭痛をなんとかしてあげたい。無の会よりもしっかり農業を学べるところがあるのならそこに行かせてあげたい。2人は現状を少しでもどう良くしていけるのかを心が通わずともお互いに必死だったことに違いない。そして僕が来た頃には無の会にこれ以上いる意味を見出だせなかった反面、無の会を継ぐかもしれない若者の出現に自分の役目を終えたかのように2014年の7月から地元の自動車工場へ転職していった。
同年代の仲間がいない中、降りかかる苦悩や困難はすでに西本さんが経験済みであり決して自分にしか分からない感覚はなかった。むしろ1人前の農業者の定義や見本が無いのであれば、まずは自分が1人前になろうとしなければ今の無の会への向上は程遠かっただろう。僕にとって西本さんはそのためのモチベーションや行動力を与えてくれた唯一の先輩です。