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夢来人 ふじまくん(建築を学ぶ学生)
農園を初夏に訪ねてくれた東京の大学で建築を学んでいる藤間くんが、寄稿してくれました。彼の目に無の会はどう映ったのでしょうか。
僕は兵庫県で生まれ育ち、大学進学のために上京して建築を学んでいる。自分は夜の渋谷で飲み歩くよりも、兵庫の公園でサッカーをする方が好きなタイプだ。
今回、初めて無の会を訪れたのだが、一番印象に残っていることが、とにかく無の会の米が本当に美味しかったことだ。毎日朝食を食べずに学校に行く生活を送っているのに、無の会では毎日早朝からご飯を4杯も食べた自分に驚いた。
畑の水路を掃除したり、山菜を採りに山を登ったり、筍を掘ったり、苺を収穫したり、さらには伝統工法を用いて自然素材で家を建てる「志木」という工務店の方からお話を伺ったり、改修する予定だという古民家を見学したり、貴重な体験をたくさんさせてもらった。その中でもひときわ記憶に残っているのが山菜採りだ。
急な山の中腹にある、手が届きそうで届かないところに生えている山菜が収穫されて、最終的に食卓に並ぶ。筍は、収穫した後に皮や食べられない部分を取り除いて、最終的に残ったほんの一部分を自分たちは「何も知らずに」口にしている。現代の人々のほどんどが、筍のどの部分を口にしているのかを知らなければ考えたこともないだろう。本当にこれで良いのだろうか。あまりにも便利すぎて、何も考えずに過ごすことができてしまう都市での生活に違和感を感じた。無の会では、こんなことを自然と考え始めてしまう場所だ。
農業の話に限らず建築も同じだ。今自分が住む家は何の素材でできているのか、隣人はどんな人なのかも知らず、家について困ったことがあればすぐに業者に任せるような人がほとんどなのではないか。実際、住宅の売り手のモラルの低さと消費者リテラシーの低さは問題になっている。「食」だけでなく「住」も大切で、建物がコンクリートでできているのか木材でできているのかは、住む人の健康はもちろん、ネズミの子宮の数にまで影響を与えるらしい。(もちろん木材の方が健康に優しい。)今自分が学んでいる建築と農業に何かしらの共通点を見出した。
都会のような束縛感がなく、自由に生きることができる会津の地で農作業を体験し、無の会・会津の住民の方々と話して、気づいたというか考えたことは、自分について深く見つめ直していく姿勢がまだまだ足りないということだ。もっと自分を客観視して、自分の見えていない部分、見ようとしていない部分にしっかり向き合っていかないといけないし、そして「自分がどうありたいのか?」を考え続けることが大切だと気づいた。
意見の主張が強い人、この社会はこうなんです。という人たちは、たしかに自分よりもそのことを長く深く考えて、それを論理的に分かりやすく説明してくれるが、それはあくまでその人のこの世界に対する一つの切り口の見方でしかない。相手の意見を絶対視せず、心の底から共感したのであれば、それを受け入れるのが良いのだろう。とにかく最終的には自分の中でこういう答えを出しますという姿勢というか軸を持ち続けないと、自分には何が見えてなくて、何を知らないのかが見えなくなってしまうし、自らそれらを排除しようとしてしまう。また、学校で教えられるような既存の概念についてのフレームをそのままに考えてしまうのではなく、それを別の新たな切り口から見ようとする必要があるし、既存のフレームのままにあらゆるものを見ようとし続けても何も見えてこないのだろう。例えば、色々な人と出会って話を聴いて、得られた価値観のフレームをそのままに受け取っても、自分の中で新たな概念が生まれるわけではないことに注意する必要がある。
実際に自分はまだまだ自分自身を客観視することができていないし、論点のずれた考え方をしてしまっている。主語の大きな環境問題や社会問題についてばかり考えているようではダメで、自分を見つめ直し、自分自身を主観的に見るのと客観的に見るバランスを常に考えて行動する必要もある。人間一人一人が自分自身を見つめ直すという環境問題以前の問題が、現代は蔓延っているのだろう。
……以上のようなことを無の会で感じた。無の会を訪ねて良かった。「またいつでも来てね」と言ってもらえていつでも帰って来れるような感覚のある場所は心の支えになった。また絶対に訪問させてもらいたいと思ったし、自分がもっと成長するためにもまた来なければならない場所だと感じた。
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